虚無僧寺
Komuso Temple
かつて、天蓋(てんがい)をかぶって顔を隠し、家々や商店の前で尺八を吹いて喜捨(きしゃ:施し物)を得ていた「虚無僧(こむそう)」と呼ばれる一群がいました。虚無僧は、戦(いくさ)に負けた敗残兵や士官先を失った浪人、仇(あだ)討ちをくわだてる者など、天蓋で顔を隠している方が都合がよい、所謂「訳あり」の者が大半であったと云われていますが、その中には、解脱を目指す禅の修行として尺八を吹くことを真摯に追究していた者たちもいました。この虚無僧たちが拠点としていたのが虚無僧寺で、江戸時代における最盛期には全国に七十箇所以上の虚無僧寺が点在していたと云われています。
かつて虚無僧寺は、「風呂屋」や「風呂地(ふろち)」と呼ばれていたそうです。おそらくは商家などの門前で尺八を吹いて喜捨を得る門付け(かどづけ)による収入だけでは不安定で寺を維持していけなかったため、周辺の住民等に蒸し風呂に入ってもらい、薪代等として収入を得ていたものと考えられます。
関西における有力な虚無僧寺であった京都の明暗寺(みょうあんじ)でさえ敷地わずか六十五坪(約214㎡)であったということですから、大半の虚無僧寺は民家と変わらない規模のものであったと考えられます。(参照:上野堅實著「尺八の歴史」)しかし、明るい内は尺八を吹いて托鉢修行し、夜は虚無僧寺にタダで泊まって今の低温サウナのような蒸し風呂にも入れたとしたら、虚無僧寺は真摯に尺八道を追究していた一部の虚無僧たちにとっては修行の場であると同時に安息の宿であり、かつてフィンセント・ファン・ゴッホ(1853-90)が夢見た芸術家のコミューンそのものだったと云えるのかもしれません。
「虚無僧寺オンライン」は、江戸時代の日本に確かに存在していた虚無僧文化を、インターネット上とこのリアル社会で継承し再興していこうとするものです。私たちは此処から、天蓋をかぶり街に出でて本曲(ほんきょく:虚無僧が吹いていた独奏曲)を吹き喜捨を仰ぐ「尺八の原点への旅」を始めます。
一月寺
Komuso Temple Hitotsukidera

現在の千葉県松戸市にあった一月寺(ひとつきでら、一説に いちげつじ)は、東京都の青梅市にあった鈴法寺(れいほうじ)と共に、「普化禅宗惣本寺(ふけぜんしゅうそうほんじ)」と称して全国の虚無僧寺の総本山を自認していた有力な虚無僧寺でした。一月寺の敷地は九畝(約892㎡)あったということで、比較的大きな虚無僧寺であったと考えられます。江戸幕府の寺社奉行は、十八世紀末頃には両寺を、全国の虚無僧寺に触れ(通達)を出す際の「触頭(ふれがしら)」として扱っていました。
一月寺の読み方には二説ありますが、本稿では、「一木(ひとつき)」という地名の読み方に由来するという森田洋平氏の説に拠っています。(参照:森田洋平「新虚無僧雑記」)
普化宗
Fukesyu as a sect of Zen Buddhism
「普化宗(ふけしゅう)」とは、禅僧の臨済義玄(りんざいぎげん:? – 867年)の言行を弟子の慧然が記した「臨済録」にその行状が書き残されている普化(ふけ:? – 860年)禅師を虚無僧たちが「宗祖」と仰ぎ名付けた宗名で、中国には普化宗という宗派が存在したことはなく、普化宗は虚無僧による日本独自の「宗派」でした。
臨済は「まともな見地を得ようと思うならば、人に惑わされてはならぬ。内においても外においても、逢ったものはすぐ殺せ。仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、羅漢に逢ったら羅漢を殺し、父母に逢ったら父母を殺し、親類に逢ったら親類を殺し、そうしてはじめて解脱することができ、なにものにも束縛されず、自在に突き抜けた生き方ができるのだ。」と説いた禅僧です。(出典:「臨済録」入矢義高訳注 岩波書店刊)悟りを開くために全てを捨てよと説いた宗教者は沢山いますが、解脱するために仏と祖師と父母を殺せと説いた臨済は、総てのしがらみからの解脱、即ち究極の自由を志向した求道者と云えると思います。この自在に突き抜けた禅僧であった臨済が只者ではないと一目置いたとされているのが普化で、その訳の分からない破天荒な行状が「臨済録」に短く記されています。
普化は、臨済と共にお斎(おとき:葬儀、法事等の後の食事会)に招かれるとその食卓を繰り返し蹴り倒し、街中で鈴を鳴らしながら「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打、四方八面来旋風打、虚空来連架打(それが明で来れば明で始末し、暗で来れば暗で始末する、四方八方から来ればつむじ風のように応じ、虚空から来ればつるべ打ちで片づける)』と繰り返し唱え、物乞いをしながらうろつき廻る気がふれた乞食僧のような存在として記されています。
そして、最期は、普化が街で「僧衣を施してくれ」と人々に頼み、それに応じて人々は布施をしたが普化はどれも受け取らなかった。臨済は普化の棺桶を作らせて「わしはお前のために僧衣を作っておいたぞ」と言った。普化は「臨済さんがわしのために僧衣を作ってくれた。わしは東門に行って死ぬぞ」と言い、街の人が東門について行くと「今日はやめた。明日、南門へ行って死ぬことにする」と言うようなことが三日間繰り返され、四日目になって誰も来なくなると、普化は一人で街の外に出て自ら棺桶の中に入り、通りがかりの人に頼んで蓋に釘を打たせた。この噂はすぐに広まり、街の人々が押しかけて蓋を開けてみると棺桶の中はも抜けのからで、ただ空中を遠ざかっていく鈴の音がありありと響くだけであった、と記されています。(出典:「臨済録」同上)
臨済の説法は極めてラディカルで確かに「突き抜け」てはいますが、論理的に理解はできます。しかし、お斎に招かれるたびに食卓を蹴り倒す普化の言行に至っては何を意味しているのかよく分からない理解不能の領域へと脱落してしまい、最期は鈴の音だけを残して虚空へと消え去っていってしまうのです。このようにも意味不明で支離滅裂な乞食僧をあえて「宗祖」として仰ぎ、頭をすっぽりと覆う天蓋をかぶりながら尺八を吹いて托鉢行脚をしていた虚無僧は、普化が唱えたとされるその意味すら定かではない「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打、四方八面来旋風打、虚空来連架打」以外に真っ当な経典らしいものも持たず、ただ尺八を吹くことだけを修行とする、おそらくは世界宗教史においても類を見ない極めて特異な存在として、今もなお不思議な魅力を放ち続けています。
普大寺跡
The historic site of a Komuso Temple Fudaiji


重要な本曲(ほんきょく:虚無僧が吹いていた独奏曲)が生み出され伝わった有力な虚無僧寺であった普大寺(ふだいじ)跡です。右から二基目が普大寺開山宗慶禅師の墓碑。三基の墓碑の左に「普化宗普大寺開祖墓」と刻まれた石碑が立っています。(この写真は平成二十九(2017)年二月に撮影したものですが、現在は石碑の配置が変わっているようです。)
現在の静岡県浜松市のJR浜松駅近くにあったこの普大寺で、本曲の重要な要素を総て含み込んでいる基本の曲とされる「本手の調(ほんてのしらべ)」や、数ある本曲の中でも最も重要な曲とされている古傳三曲(こでんさんきょく)の「虚鈴(きょれい)」「虚空(こくう)」「霧海箎(むかいぢ)」など、極めて重要な本曲が生まれ伝承されたと云われています。
龍源寺跡
The historic site of a Komuso Temple Ryugenji


伊豆にあった虚無僧寺の龍源寺跡に七基の虚無僧の墓碑が遺されています。
龍源寺で生まれ伝承されたと云い伝えられている曲として「瀧落(たきおち)」があり、龍源寺のそばにある「旭滝」という滝を表した曲とされています。
「アジール」としての虚無僧寺
Komuso Temple as asylum
天蓋をかぶり顔を隠しながら喜捨を得て諸国を行脚し虚無僧寺に泊まることができた虚無僧は、士官先を失った浪人や仇討ち志望者やお尋ね者、そして放蕩無頼のかぶき者等の所謂「訳あり」の者たちにとって格好の隠れ蓑であったと思われます。
松浦静山著「甲子夜話続編(かっしやわぞくへん)」には、幕末の天保元(1830)年頃に、一月寺が大破したため、その再建のために浅草にあった一月寺の番所で本尊のご開帳があり、そこに向かう虚無僧たちの行列と行き逢ったが、「虚無僧の衣服は、綸子(りんず)、羽二重(はぶたえ)、沙耶(さや)、縮緬(ちりめん)等 種々。尺八袋は天鵞絨(ビロード)、錦(にしき)、毛織、其外美麗なる品、種々の縫紋付せるあり。帯は丸ぐけ、羅紗(らしゃ)等」と書かれ、士官先を失った浪人が身をやつした虚無僧の暗いモノクロのイメージとは真逆の、非常に派手で豪奢な出で立ちの伊達虚無僧(「虚無僧装束」ページ参照)を含んだ集団であり、この「隊列には吉原の者や芸妓も加わり数百人による仮装行列のよう」(出典:山口正義著「尺八史概説」)であったということで、虚無僧寺は、幕藩体制の支配から逸脱した「アジール(解放区)」のような役割を担っていたものとも考えられます。
虚無僧寺の終焉
The end of Komuso Temples
檀家を持たず葬儀を執り行えなかった虚無僧寺は、当初は周囲の住民に蒸し風呂を施して収入を得ていたようですが、風呂屋の営業権の問題や湯船に入る方式の「湯屋(ゆや:銭湯)」の増加など、何らかの理由で風呂の経営が成り立たなくなり、門付けをする虚無僧たちの中にはゆすりやたかりのような悪行をはたらく者もいて、江戸時代後期になると、村落を虚無僧が門付けを行わない「留場(とめば)」にし、虚無僧寺が悪行をはたらく不正虚無僧等を取り締まる代わりに、村落が「留場料」や「取締穀代」等の名目で虚無僧寺に一括で布施を支払う、という約定が交わされるようになりました。この「留場料」や「取締穀代」の収入が、虚無僧寺の経営に寄与するようになります。
また、「少なくとも十八世紀以降の幕府の方針は、虚無僧になれるのは士族階級の者に限ることとし、尺八は普化宗の法器(ほうき:宗教のための道具)として彼らのためのみ吹奏を認めるというもの」(出典:上野堅實著「尺八の歴史」)でしたが、実際には、江戸時代後期には「尺八吹合所(ふきあわせしょ)」と呼ばれた尺八指南所で武士や浪人だけでなく町民や百姓にも尺八を教え「本則」という尺八の免状を付与する際の収入も虚無僧寺の収入源になっていました。
この「留場」や「吹合所」の増加と幕府の取り締まりの強化等によって、江戸末期には虚無僧たちの門付けは次第に行われなくなっていたようです。虚無僧が尺八を吹きながらの托鉢行脚を行わなくなったこと、それはつまり、本曲を空で吹けるようになるまで繰り返し吹き続ける修行が必要とされなくなったことと同義であり、虚無僧寺がもともと脆弱であったその宗教的な性格を失い、尺八を吹奏する芸能者や伊達者やかぶき者たちの寄り合い所のようになっていく大きな要因となり、尺八を吹くことによる禅の悟道を追究した修行の場としての虚無僧寺は実質的に既に終わっていたとも云えます。
虚無僧寺は、慶長十九(1614)年に徳川家康が虚無僧寺に与えたとされる、虚無僧は士族の身分であり諸国を托鉢行脚する自由往来権を有する等の虚無僧の特権を列挙した「慶長之掟書(けいちょうのおきてしょ)」(「虚無僧装束」ページ参照)をその存立の拠りどころとしていたため、そして、おそらくは虚無僧寺が実質的に体制の支配を受けない「アジール」であったが故に、幕藩体制崩壊後の明治四(1871)年に、中央集権化を急ぐ明治新政府による太政官通達によって普化宗は廃宗となり、虚無僧寺はその終焉を迎えることになります。
展示物:松戸市立博物館
参考文献:
(著者の名字の50音順表記。敬称略)
上野 堅實「尺八の歴史」(出版芸術社)
岡田 富士雄「虚無僧の謎 ー吹禅の心」(秋田文化出版)
岡本 竹外「尺八随想集」(明暗蒼龍会)
葛山 幻海「まるごと尺八の本」(青弓社)「虚無僧宗禁記集」(虚無僧尺八保存会)
神田 可遊「虚無僧と尺八筆記 ~『邦楽ジャーナル』連載文集~」(神田 可遊)
鬼頭 勝之「虚無僧弾圧の序曲 芥見村虚無僧闘諍一件」(ブックショップ マイタウン)
慧然(入矢義高訳注)「臨済録」(岩波書店)
小菅 大徹「江戸時代における尺八愛好者の記録 ~細川月翁文献を中心として~」(虚無僧研究会)
志村 哲「古管尺八の楽器学」(出版芸術社)
高橋 空山「普化宗史 その尺八奏法の楽理」(普化宗史刊行会)
武田 鏡村「虚無僧 聖と俗の異形者たち」(三一書房)
月渓 恒子「尺八古典本曲の研究」(出版芸術社)
長谷川 佳澄「近江国における虚無僧取締り」(虚無僧研究会)
森田 洋平「新虚無僧雑記」(神田 可遊)
山口 正義「尺八史概説」(出版芸術社)