虚無僧装束
Komuso Costume

虚無僧は、頭をすっぽりと覆う天蓋(てんがい)をかぶり、関東では黒、関西では白の単衣(ひとえ)を着て肩に袈裟(けさ)をかけ、高下駄を履いていたと云われていますが、渓斎英泉や安藤広重、葛飾北斎の浮世絵では、現在の埼玉県の鴻巣(こうのす)市や神奈川県横浜市の保土ヶ谷をゆく虚無僧は旅の途中で、丈の短い白の小袖(こそで)を着て、脚絆(きゃはん)を付け、草鞋(ぞうり)を履いています。
虚無僧を特徴づけているものは、天蓋と尺八です。虚無僧は、天蓋をかぶることによって顔が完全に隠れて表情すらうかがい知れない匿名の、無私の存在になります。そして、虚無僧が吹いていた尺八の独奏曲である本曲(ほんきょく)は、いつ作られたのかも定かではない作者不詳の口伝(くでん)による伝承曲です。
この無名性、そして自然発生的であることが虚無僧、及び虚無僧尺八の特質であり、虚無僧が現れる以前の中世期から野外で施しを得ていた流浪の乞食僧の暮露(ぼろ)や、腰に野宿のための薦(こも:むしろ)をくくり付け尺八を吹いて門付け(かどづけ:托鉢)をして喜捨(きしゃ:施し物)を得ていた薦僧(こもそう)の流れを汲みながら、戦に敗れた敗残兵や士官先を失った浪人等によって、飢餓と貧困と戦乱の地の底から自然発生的に生まれてきた作者不詳の尺八の独奏曲が幾世紀にもわたって吹き継がれてきたことに重要な価値があります。
中世の薦僧
Komoso in middle ages of Japan
中世末期(16世紀初期)に描かれた尺八を吹く薦僧(こもそう)の絵です。紙ぎぬ(渋紙を揉み上げて作った布)の肩掛けをして地べたに座り、面桶(めんつう:乞食が携帯する食器)と薦(こも:むしろ)を背後に置いて、普化(ふけ)尺八(「尺八」ページ参照)と思われる長い尺八を吹いています。そして、「きせん(貴賤)乃(の)門戸によりて尺八ふくより他には異業なきもの也」と書かれ、薦僧が尺八を吹いて門付け(托鉢)を行い野宿する無宿の乞食(こつじき)であったことが判ります。
「三十二番職人歌合」には「薦僧」と共に「虚妄僧」という文字が使われ、「室町時代の国語辞典である「節用集」の中でも古いものといわれる横川景三(1429-93)編の「黒本本節用集」の〔こ〕の部に「薦僧・普化」の二語が収録されている。」ということで(参照:上野堅實著「尺八の歴史」)、普化禅師を始祖と仰ぎ尺八を吹きながら門付けをしていた薦僧の生業(なりわい)は、江戸幕府による幕藩体制の確立に至るまで続いた戦乱の時代に大量に生まれた敗残兵や浪人たちに受け継がれ、解脱を目指す禅の悟道と、殺すか死ぬかの修羅道を生きた武士の性格を併せ持った虚無僧へと変容していったものと考えられます。




虚無僧は、禅宗の一派であるとされた「普化宗(ふけしゅう)」の「修行僧」であると自認していました。虚無僧も虚無僧寺も自然発生的に生まれたものであり、彼らの「宗派」や「宗史」、虚無僧寺の「開祖」や「縁起(寺社の創建の由来)」等もそのほとんどが体裁を整えるために後付けで作られたものであったと考えられます。
普化宗とは、禅僧の臨済義玄(りんざいぎげん:? – 867年)を上回る破天荒な禅僧であったとされる普化(ふけ:? – 860年)を虚無僧たちが「宗祖」として仰ぎ名付けた宗名で、中国には普化宗という宗派は存在したことはなく、普化宗は日本独自の「宗派」でした。普化宗は宗教らしい教義を持たず、虚無僧たちは尺八を吹くことのみが修行であるとする極めて特異な宗派の「禅僧」として虚無僧寺を拠点に活動していました。(「虚無僧寺」ページ参照)

虚無僧たちが自らの権益を担保する拠りどころとしていたのが、慶長十九(1614)年に晩年の徳川家康が虚無僧寺に与えたとされる「慶長之掟書(けいちょうのおきてしょ)」です。この掟書には、普化宗は武士が失職し浪人になった際に一時的に身を寄せる「勇士浪人一時之隠家」の宗門であるが故に虚無僧は士族の身分であり、托鉢しながら諸国を行脚できる自由往来権を有し、顔を隠しながら門付けができるように屋外では天蓋をとらなくてもよいとされ、士族階級に属する者として敵討ちが許され、さらに「血刀を提げ寺内に駈け込み依頼する者」については「其の起本を糺(ただ)して抱え置く可し」とあり、虚無僧の特権と虚無僧寺が治外法権であることを認める内容となっています。
鈴法寺は、寺社奉行からの問い糺しに対して、この掟書の原本は宝永丁亥(1707)年に火事によって焼失したと答えていますが、その写しとされるものにも様々な異本が存在し整合性がとれないことから、虚無僧が自らの権益を守るために捏造したものとされています。しかし、二十万人を超える浪人達による狼藉・犯罪の取り締まりに苦慮し、一向一揆のような蜂起・反乱を警戒していた江戸幕府は、浪人対策の一環としてあえて虚無僧寺の普化宗門を追認し、「慶長之掟書」を公式に偽書と断じたのは弘化四(1847)年の幕末になってからのことでした。(参照:上野堅實著「尺八の歴史」)
歌舞伎役者の虚無僧装束
Komuso Costumes worn by Kabuki Actors

「二代目市川高麗蔵の曽我十郎と五代目市川団十郎の曽我五郎」
初代市川團十郎が父の仇(あだ)討ちを果たす曽我五郎を演じた「寿曾我対面」の興行が延宝四(1676)年に大当たりした後、初春歌舞伎の正月興行には「曽我もの」が定番の演目になったということです。この「曽我もの」の中で曽我兄弟が着た虚無僧装束は歌舞伎らしい派手な色合いの衣装で、大衆演劇の歌舞伎をきっかけに、禅の修行者としてのモノクロの虚無僧像とは異なる、派手な出で立ちの伊達者(だてしゃ)としての虚無僧像が形成され始めました。
仇討ち、敵(かたき)討ちのために虚無僧になる、或いは虚無僧に扮する。これは実際にあった話で、宝暦(1751-64)頃に、有力な虚無僧寺であった鈴法寺が寺内を調査したところ、虚無僧の恰好をした敵討ち志望者が三人見つかったということです。(参照:泉 武夫著「竹を吹く人々 ー描かれた尺八奏者の歴史と系譜ー」)
伊達虚無僧
Date Komuso
江戸時代中期の絵師の鈴木春信(1724-70)、磯田湖龍斎(1735-90)、喜多川歌麿(1753-1806)、鳥居清長(1752-1815)等は盛んに虚無僧を描いており、画題として虚無僧の人気が非常に高かったことが窺われます。
虚無僧を題材とした浮世絵は、ほんとんどがアイドルやモデルのような華奢な若衆や美人が虚無僧のコスプレをしているような絵で、当時の虚無僧装束が恰好良い伊達なファッションとして認識されていたものと考えられます。鈴木春信の「格子先の虚無僧」に至っては、遊郭の格子の中から遊女が虚無僧への抑え切れない慕情を表し、禿(かむろ:遊郭で遊女の身の回りの世話をした童女)に心づけを手渡しさせていて、女性に貢がせる現代のホストのような軟派な虚無僧像が描かれています。
伊達虚無僧を描いた浮世絵の需要や、市井の町人までが尺八の吹き方を学んだ「尺八吹合所(ふきあわせしょ)」の増加等を鑑みると、江戸時代中期以降の「天下泰平の世」における虚無僧は、士官先を失った浪人が身をやつした暗く貧しいイメージとは全く異なり、派手な衣装で尺八を吹き流すロックミュージシャンのような捉えられ方で、特に都市部で人気を博していたのではないかと思われます。様々な面で自由が制限されていた徳川幕府による幕藩体制の支配の下で、尺八を吹きながら諸国を旅する虚無僧のイメージは、無頼、ひいては自由の象徴という意味でも憧れの対象になっていたのかもしれません。

